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【裳華房】 歴 史

裳華房メールマガジン 連載コラム「裳華房の“古書”探訪」


 創業はあまりに古くはっきりしませんが、江戸時代の正徳年間(1711〜1715)に、初代 伊勢屋半右衛門(奥田盛時)が仙台の国分町十九軒(現在の宮城県仙台市青葉区国分町二丁目二の一)において書肆(書物を出版・販売する店。屋号「裳華房」、通称「伊勢半」)を営み、出版活動を行っていた記録があります。裳華房の(確認できる範囲での)最初の出版物は、正徳元年(1711)に刊行された『萬日記盡(よろずにっきづくし)』です。(→ 『萬日記盡』弘化4年の再板版(東京学芸大学所蔵)の画像

 屋号(社名)である 「裳華房(しょうかぼう)」の由来は、中国最古の詩集である『詩経』の中の「小雅」という篇の中に、

「裳裳者華、芸其黄矣。我観之子、維其有章矣。維其有章矣、是以有慶矣。」

という一節があり、そこからとったと伝えられています。これを日本語にすると「満開の花で美しく彩られた輿の中の人物が着る目のさめるような衣服や彼の風采から、文化的才能を持ち福もあると推察される」というような意味になり、「裳華」の二文字は「堂々とした満開の花、すぐれた文才があり繁栄するさま」を表していると思われます。

 その頃の出版物としては、九九や割り算等の早割日用算法記(文化二年(1805))、人の運命を推し考える推命書(天保二年(1831))、仙台暦の萬延二辛酉暦(万延元年))、気象予報を記す文久四年甲子歳晴雨考(文久三年(1863))などがあり、元禄年間から幕末に至るまで百点以上の書物が出版されていたと記録されています。

 明治期の半ばに、10代目にあたる吉野兵作が単身仙台より上京して、明治28年(1895年)2月11日、東京府日本橋区本石町三丁目十三番地(現在の東京都中央区日本橋四丁目一)に「合名会社 裳華房」を設立しました。
 東京開業後、初めて手がけたのが、伝記の『林子平』(明治29年(1896))をはじめとする「偉人史叢」シリーズで、大変に好評を博し、裳華房の礎になりました。この「偉人史叢」は、臨時発刊などを含めて全部で30巻刊行されましたが、初めから30巻と巻立てしたのではなく、好評のままに巻数が増えたものと思われます。

 そのほか、札幌農学校(明治31年(1898))、明治日本が輩出した真の国際人、新渡戸稲造のBUSHIDO(武士道) The Soul of Japan』(明治33年(1900))や『農業本論』(明治31年(1898))、日本の近代昆虫学を築いた松村松年による『日本昆虫学』(明治31年(1898))、日本医史学史上に燦然と輝く大著日本医学史(明治37年(1904))、ソテツの精子を発見したことで著名な池野成一郎著『植物系統学』(明治39年(1906))、月をテーマにした、おそらく最初期の本(明治42年(1909))など、東京開業から10余年の間に各学界を代表するであろう方々の著作物を次々と出版してきました。

 明治後期から、次代に来るべきものとして自然科学・技術の重要性に着目し、基礎科学書の出版に力を注ぎ、主として、数学・物理学・化学・生物学・農学等の専門書を手がける傍ら、旧制高等学校や工業専門学校などの理工系教科書や参考書を出版して、手堅く事業を拡大していきました。

  【参考】 大正7年(1918年)当時の裳華房の出版物(pdfファイル;松井元興著『分析化學(上)』の奥付広告)

 昭和2年(1927年)に現在社屋のある麹町区六番町54(現在の住所表記で千代田区四番町8)に移りました。このころの主な出版物として、原島善之助 著『産馬大鑑』(明治41年)、竹内端三 著『函数論 上・下』(大正9年)、鮫島實三郎 著『膠漆学』(昭和9年)、柴田雄次 著『分光化学』(昭和19年)などがあります。

 おかげさまで現在も、数学・物理学・化学・生物学分野を中心とした理工系書籍を出版し、読者の皆様のご評価をいただいております。


裳華房メールマガジン 連載コラム「裳華房の“古書”探訪もご参照ください※



『早割日用算法記』

文化2年(1805)
裳華房 伊勢屋半右衛門刊
本の大きさ: 13.1×17.3 cm



 九九、割り算、米穀の相場割、利足割など、日用の算法をもって解説する。算盤などの図入り。和算は江戸初期の吉田光由の『塵劫記』(1627)に始まる。


『推命書』

桜田 質(虎門)著
上・中・下3冊
天保2年(1831)
本の大きさ: 25.8×17.3 cm


 十幹十二支五行によって人の運命を推し考える説。著者(1774〜1839)は仙台の儒者。
 仙台藩儒志村五城に学び、江戸に出てから服部栗斎について程朱学を修める。江戸の仙台藩邸内にある順造館の教授になり、後に帰郷して門弟に教授する。儒学を始めとして、易学、天文、武術に通じた。


『萬延二辛酉暦』

奥州仙台属神明社 平野伊勢蔵版
万延元年(1860)
本の大きさ: 16.1×12.8 cm


 江戸時代に広く普及した地方仮名暦の一種で、江戸暦に類似した仙台暦。暦は普通前年末に出版されるので、表紙に「酉三月より文久元年」と墨書されているように、年度の途中に改元があっても前の元号で一年間は使う。
 仙台暦は、延宝〜正徳が第一期、安政元年に復活してからを第二期とする。太陰暦の真名具注暦が奈良時代から使われ、以後仮名暦(最古版 元弘2年)もできた。


『文久四年甲子歳晴雨考』

仙台司天家蔵板
文久3年(1863)
本の大きさ: 17.4×13.3 cm


 江戸後期に現れる時雨考の地方版の一種。「西ニ黒雲アレドモ日没ニ臨テ雲散シ日輪見エテ雲外ニ日没ハ明日晴天」など、時雨の気象予報格言が見られる。
 また、五運六気を駆使した運気によるこの年の時雨気象予報を記す。これも暦と同じく、前年末に出版されるので、元治元年のはずが文久四年版として伝わる。


「偉人史叢」第一巻『林子平』

長田権次郎(偶得) 著
明治29年(1896)2月
本の大きさ:菊判


 江戸時代享保年間(1716〜)より仙台の地で、書肆、版元として明治まで続いた裳華房の流れを引き継ぎ、明治28年に東京の中心・日本橋本石町に進出した芳野兵作が、満を持して出版した第一作。

 「林 子平」は江戸の人だが、兄が仙台藩士だった縁で仙台に住み長崎に留学。オランダのカピタンから、ロシアの南下の野望を聞き、海防の必要性を知り、『海国兵談』などを著した。

 この企画はタイミングも非常によかった。当時、日清戦争の勝利によってせっかく得た遼東半島を露・独・仏三国の干渉で清国に返還させられた。この事件によって富国強兵が急務と目され、国民が民族意識を強く持ったため、日本古来の伝統や文化を見直そうとしはじめていた。
 こういう時期に、平易でしかも精緻な記述が世に大いに受け入れられ、各巻、一冊20銭で販売した。しかも貸売りは一切なし、前金でなければ送本しなかったという。

 明治33年6月までに21巻、臨時発刊6巻、第2輯5巻を発行。

メールマガジン連載コラム「裳華房の“古書”探訪(25)」(2015年2月配信)での紹介記事


『札幌農学校』

札幌農学校学藝会 編纂
明治31年(1898)9月
本の大きさ:菊判


 北海道開拓の一翼を担い、開拓使長官 黒田清隆の下、米国より招致のウィリアム・スミス・クラークを教頭に仰ぎ、明治9年(1876)に開校に至った札幌農学校の沿革を記す。
 巻頭に有名なクラークの言葉“BOYS BE AMBITIOUS!”を掲載する。

 本書は好評を博し、明治35年に増補第3版を出すに至ったが、その間の生徒募集に一役かった。
 なお同校よりは、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾などの逸材が輩出している。


『BUSHIDO(武士道) The Soul of Japan』

新渡戸稲造 著
明治33年(1900)
本の大きさ:菊半裁


 明治日本が輩出した真の国際人、新渡戸稲造の精神的真骨頂を著した主著の一つ。
 1899年に米国で出版されたものの翻刻版。武士道を、日本の道徳形成の基本とする良き精神的伝統を西洋に紹介。
 この版で15,000部が売れたとされる。

 著者は、札幌農学校を卒業(明治14年(1881))後、米国J.ホプキンズ大学に留学、さらにドイツにも遊学し、札幌農学校教授、国際連盟書記局次長にもなった。

 本書のほかに、裳華房から『農業本論』(明治31年(1898))を出版している。これは新渡戸稲造本来の研究テーマである農業政策について国際的視野に立って論じたもので、彼の初の本格的論文であり、博士論文ともなった名著である。


『日本医学史』

富士川游 著
明治37年(1904)10月
本の大きさ:菊判


 日本の古代から明治にいたる医学発達の歴史を系統的に詳しく述べた書。日本医史学上に燦然と輝く大著で、今日末だこれを超える本は出来ていないと思われる。のちに学士院恩賜賞を受賞。
 1000頁余にのぼる大冊であるが、原稿では3000頁余もあったという。

 奥書に「芳野氏ノ意ハ此書ヲ以テ今日ノ学問社会ニ有要ノ一書トナシ、収益ノ有無ヲ打算セズシテ、以テ書肆ノ社会ニ対スル責任ヲ尽サントスルニアリ」とある。

メールマガジン連載コラム「裳華房の“古書”探訪(19)」(2014年5月配信)での紹介記事


『月』

一戸直蔵 著
明治42年(1909)
本の大きさ:菊判


 「月」というテーマを科学的に単独に著した、おそらく最初期の本。科学的解析はもちろん、古代からの、人間の月に対する想いも記されている。
 ジュール・ヴェルヌの科学冒険小説『月世界旅行』(原著1863)の邦訳(明治13年(1880))が出てから29年後の出版。

 東京帝国大学の著者は、ほかにサイモン・ニウコンム(ニューカム)の『宇宙研究 星辰天文学』の邦訳(明治39年(1906))、『暦』(明治42年(1909))、『星』(明治43年(1910))を裳華房から出版している。

メールマガジン連載コラム「裳華房の“古書”探訪(15)」(2013年6月配信)での紹介記事


裳華房メールマガジン 連載コラム「裳華房の“古書”探訪もご参照ください※



         

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