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雑誌「遺伝」2001年7月号

●特集 自然史と自然史博物館●

特集にあたって

大路樹生

 今回は,「自然史と自然史博物館」についての特集である.私は古生物学の研究をしているが,自然史科学に携わっているという言い方もできる.また,新聞や雑誌などでも自然史という言葉がよく取り扱われるので,読者の方々も耳にする機会が多いのではないだろうか."自然史"とは,われわれの周囲の自然を調べ,生物の種類,成り立ちなどを調べる研究のことだろうか,と何となく考える人は多いだろう.また,日本にも各地に自然系の博物館や自然史博物館と銘打つものもある.しかし,"自然史"とはいったいどのような意味をもった言葉なのだろうかと考えてみると,自信をもってこのような意味である,と答えられる人は多くないだろうし,自然史科学にかかわる研究者でさえ人によって答えが違うのではなかろうか.

 "自然史"という言葉は,英語に古くからある言葉である,natural historyという言葉の訳語とされている.自然史とは,自然界に存在する,動植物,岩石,鉱物等の自然物を観察し,これらを記載・分類するという基本的な研究のことをさすのであろう.さらにこれらがどのようにしてできてきたのかを調べる学問をも含めて,自然史科学と呼ぶこともできるかもしれない.まずこれらの自然物を記載し,どのような種類が存在するのかを把握し,さらに生物の系統・進化,岩石・鉱物の生成条件などを探るのもこの研究に入るだろう.ただ,この"自然史"という言葉とその意味には時代と共にかなりの変化がある.現在,分類学は分岐分類学を導入したり分子生物学的な手法をとることも多くなり,また動植物を調べる学問自体も生態学,生理学,発生学,古生物学など多様である.自然史が動植物などの多様性に関する学問と考えると,これらの学問もみな自然史科学の分野と考えることができる.実際,近年誕生した自然史学会連合は伝統的な分類,記載や生物地理的な研究を主体とする学会以外にも多数の学会を取り込み,活発な活動をみせている.

 "自然史"という言葉の歴史的側面については,花井(1996;文献)に詳しくまとめられている.この中に自然史に関する多くの指摘がなされているが,そのうちで興味深いのは,natural historyという言葉のhistoryには,歴史という概念はなく,「一組の自然現象の(時間には関係ない)体系的な記述」という意味で使われていること,すなわち,natural historyの訳語としては,元来「自然誌」のほうがふさわしいこと,しかし現在,自然物の分類,記載に限らず,その歴史的な側面(系統,進化,生物地理,成因,など)を含めた意味で近代的な学問をさす場合には,おそらく「自然史科学」と呼んだほうが良いであろう,という点である.

 さらに花井(1996)の中に,博物館,すなわちMuseum(ギリシャ神話のミューズ神の神殿Mouseionから由来した言葉であるという)という語は,もともと研究施設を意味していた,とのくだりがある.つまり元来,博物館は研究を行う場所であったが,次第に研究資料を収蔵したり展示する建物を博物館と呼ぶようになった,というわけである.これは重要な事実である.現在,日本各地に建てられている自然系の博物館の多くは,一般の人々に自然史科学にふれさせ,その重要性を教えるという役割を果たしている.そして,どちらかというと,これらの博物館は入館者に注意を払った展示に重きを置いているように思われる.しかし,博物館のもう一つの重要な役割は,むしろ入館者からはみえにくいバックヤードにある.研究に使われる資料を蓄積し,資料に基づいた研究を行うという,地道な活動である.博物館の本来の意味からして,研究を行いその成果を世の中に送り出す,という面も強調されるべきであろう.

 本特集は,三つの部分に分けられている.「自然史のおもしろさ」では,自然史科学自体を研究されている方お二人から,それぞれ専門とされる分野の紹介である.国立科学博物館の松浦氏には,魚類の自然史研究の醍醐味と,問題を解決するのに時に長い時間を要することもあるその困難さを,国立遺伝学研究所の今井氏には,アリのデータベースの例では標本自体が重要であることは当然ながら,画像データベースが自然史研究の強力な手段となりうることを紹介していただく.「市民と博物館」では,市民参加のデータベース作成によって,ダイナミックな動植物の分布が把握できる例を神奈川県生命の星・地球博物館と仙台市科学館から紹介していただくと共に,千葉県立中央博物館,大阪市立自然史博物館,兵庫県立人と自然の博物館,福井県立恐竜博物館,そして北九州市立自然史博物館の活動例を語っていただく.さらに「これからの自然史と博物館」では,「ハンズオン」に長く携わられている染川氏に,博物館が一般の人々と接する際のこの新しいふれあい方によって,多くの人にこの分野への大きな興味を呼び起こすことを語っていただく.さらに自然史学会連合の代表をされていた速水氏,そして矢島・森両氏から,自然史科学が他の科学とは異なる性質をもっていること,そして自然史科学の展望について語っていただき,これに携わるものへのエールを送っていただく.


文  献
花井哲郎:自然史科学の意味論(自然史科学という言葉の意味).化石,60,63-66(1996).
(おおじ たつお,東京大学大学院 理学系研究科)



         

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