『数学は物理の道具である』

 こういう標語を ときどき耳にする。
 私 自身は, このままの形で学生にストレートに話したことはない。 いゃ, そう言うと, 「それは違います」と かつての学生に言われるかもしれない。 自分自身もそうだったが, 学生は自分が聞いたことをよく覚えている。 だから, ここでも安全のために (?) 正確に言うことにしよう。 そういう記憶は 全く無い。
 なぜなら, とくに大学新入生に表題のような言葉を言っても, 怪訝な顔をされると思うからだ。
 実際, 高校理科で「数学」を使うのは化学と物理であるが, 化学は ほとんど 比例計算で済む。
 しかし 物理となると, 物理法則がそもそも数式により表される。 その上, 微分・積分はご禁制であるとは言え, 使える方が分かりやすい。 つまり, 上の標語は 高校生にとっても自明である。
 言い換えると, 高校生も大学生も,
  [A] 数学は, 物理で必要な計算を実行するための道具である
と心得ている。 この飛び道具を使えなければ, 問題を解けない。 試験にパスしない。 大学に入れない。 だから物理で数学を使わざるを得ないのである。
 確かに これは一面の真理である。
 理論家の端くれである筆者にしても, 必要があればかなりの計算もしたし, たまたま特殊関数が出てくれば嬉しくなるとか (笑), 複雑な数値計算が必要となれば, どんな数値計算法を使えばよいかなども考えた。 数値計算というのも, 場合によっては「道具としての数学」が重要な役割を演ずる。
 しかし, 理論家と数学との交流が その程度と考えられているのだとすれば, それは大いなる誤解である。 研究ももっと初めの段階で, 頭の中で数学との交流が始まっているし, そうでなければ 理論研究は進まない。
 複雑な話をここでしても仕方がないので, 上の標語を書き換えることから始めよう。
  [B] 数学は, 物理そのものを理解するための道具である
 学生に講義をしていた頃, 特に低学年の学生にこれを理解してもらうことが重要だと痛感した。 そのため, ときには 黒板に 大き目の文字で [B] を そのまま書いていた。
 分かりやすい1つの例は, 初等力学に登場する次の例である。
   (1) 中心力
   (2) 角運動量が保存する
 よく知られているように, (1) を仮定すれば (2) は すぐに出てくる。 それにはベクトル積の性質を使う (ただし, ベクトル積は 学生に嫌われやすい。 あんなものどこで使うのか … と)。
 ベクトル積を使わずに (1) から (2) を導くことは, ニュートンが初めて示した。 だから 難しいことではないとも言えるが, しかし 角運動量をベクトル積により表現する方が簡明である。
 こういう例は 他にも見つかる。 初等力学では「保存力の条件」がある。
 すなわち, 一見しただけでは 同等なのか 同等でないのか … が判別できない場合に, 数学の力を借りると, 簡単に判別できることがある。 このような場合の数学の威力は [A] のような意味での有効性を遥かに超える。 我々の頭をスッキリさせてくれる … と言ってもよい。
 もっと高級な例では, 物理の広汎な分野で変分原理が重要な役割を果たしている。 解析力学では, ハミルトンの原理とかいうのを使って, 何やら分からないが ラグランジュの運動方程式を出してくる … というレベルから, 力学を飛び出すと 数多くの分野でこういう考え方が有効であることを教えられる。 そこまで行くと 物理の持つある種の美しさが感じられ, この宇宙を神様がお創りになったのかと思いたくなる。
 もう品切れになった『なっとくするベクトル』には, こういう状況を
一見しただけでは明らかでない隠れた構造を, 理論的に明瞭な形で示してくれる数学の働きは, まことに大きい (p.107)
と書き留めた。
 実情を言えば, それを見抜けないために回り道の計算をせっせと行なった挙句, 隠れた構造にやっと気づく … という愚かなことを理論家は蔭でやっているのである (笑)。 そういう経験が理論家の実力を養う糧ともなる。 失敗しなければ進歩しないのは, どの世界でも同じである。