卒業研究の想い出

 インターネットの普及というのは ありがたいもので, 検索すると 思いも掛けなかった情報が手に入ります。
 このほど ウェブで 私が4年生のときの卒業論文が見られることが分かりました。 もう 50 年以上昔, ちょうど卒業後の 10月1日に東海道新幹線が開業し, 10月10日からはオリンピックで賑わっていた 1964 年のことです。
 これが(1) 応用物理に掲載された短い報告 (PDF) のリンクです。 とても読みづらいので, HTML 形式のファイルに書き直しました(2)
 ガラスをぶっ壊す
 どういうことをやっていたかというと, ガラス板をハンマーで叩いて, 割れ目が進む速さを測る ・・・ という実験でした。 コマ撮りで高速度撮影ができれば 言うことはありませんが, そういう便利なものは 研究室にはありません。 なにしろ 携帯電話も無ければ PC も無い。 電卓すらない。 計算は, 計算尺を使うか「丸善対数表」を使うという時代です。 コンピュータと言えば, 2年後の 1966 年に 主記憶容量が何となんと 16 kW の「大型計算機」なるものが 初めて東京大学の「大型」計算機センターに納入される … という時代でした (今の携帯電話なら 最低でも 16 GB)。 高度成長は始まったばかり。 ここで, 私たち 2人の学生のついた アメリカ帰りの 30 代の兵藤申一先生が考えたのは, カー・セルをシャッターにして 短い時間内に2コマを重ね撮りする ・・・ というものでした。
 右の写真が, 苦労して得られた貴重な1枚です。この記事には
 「期待したような濃淡が同心円状に存在することが認められる」
と書かれているのですが, 分かりますか?(笑)
 割れ目の濃い部分は 2回撮影されています。 淡い部分は1回だけです。 なるべく目一杯に (PC では CTRL+ により) 拡大して ご覧ください。 私の記憶では, 写真乾板を見れば 絶対に (笑) 文句のつけようが無いほど 明瞭でした。
 2.2 μs の間に 淡い割れ目が 1 cm ほど伸びているので, 割れ目の速度は 1 cm / 2.2 μs ~ 5,000 m/s であることが分かります。 この話をすると「毎秒5キロとは ずいぶん速いんですね」と言われることがあります。 ひずみエネルギーが固体の中を伝わる速度のようなものだと考えれば, 固体中の音速の程度だということが分かるでしょう。
 鍵っ子と神代
 4年生の日課は, 午前中は授業, 午後は研究室でした。
 その授業のかなりの科目は, 工学部の他学科の講義が選択科目として指定されています。 工学部は理学部と違い, 社会に出ることを前提として広く浅い知識を教えることを重視する。 この多様な科目というのが, 実際にそのまま役に立つことは少なかったけれども 結構面白かった。 後に理論に進んだ私にとって一番役に立ったのは, 3年~4年にわたる「実用解析学」でした。 ALGOL とアセンブラの実習がついていました。
 午後 研究室に行くと, 大抵は 先生が在室です (実験室へは, 先生の居室を通らないと入れない構造でした)。 鍵をもらっていたのだろうと思いますが, その記憶がありません。 そのくらい「在室率」が高かった。 世に言う「鍵っ子」の反対で, 「鍵なしっ子」と言えばよいのでしょうか。
 鍵っ子研究室として名高いのは, 理学部物理学科の久保研究室でした。 鍵っ子さんたちが ご自分で「ぼくたち 鍵っ子ですから」と自慢そうに (?) 言っていたので間違いありません。 どうして あそこから 鍵っ子さんの俊秀が続々生まれたのか 実に不思議です。 私は鍵っ子の経験が無いので分かりませんが, そういう研究室では おそらく「断面積」がかなり小さく, 何か「イベント」があると, それが「レコード」として強く印象に残るのだろうと想像しています。
 私の場合は, 断面積が非常に大きくて, イベントがあり過ぎて だから 却って何も記憶に無いのかな (?) と思います。 ちょうど, 順調に育てられた子どもが 自分の状況をごく当たり前のことだと思うのと似ているでしょうか。
 実は, ありがたいことに「鍵なしっ子」を大学院, 特に博士課程で 再び経験しました。 もちろん, 先生がまだ若かったのであり得たことで, 責任あるポストに就くようになってからは 無理のようでした。 口さがない後輩たちは, 私の世代を「神代」と呼びます。
 応用物理の系譜
 日本の応用物理の草分けは, 寺田寅彦である。 その門下生には, 中谷宇吉郎 (物理学者), 坪井忠二 (地球物理学者), 平田森三 (物理学者) がいる。平田は「割れ目」と破壊メカニズムの研究で知られる (たとえば, キリンの肌のまだらはどうしてできるのか)。 平田の門下生が兵藤申一である。
 こういう系譜の中で, 兵藤申一は 寅彦の孫弟子として 次第に「寺田物理学の後継者」と見られようになった。
 私が卒業研究にこのような応用物理を選んだ理由が何だったのかは, 全く記憶に無い。 ガラスの破壊というテーマが決め手だったのかどうかも覚えていない。 あるいは他の人気が高い研究室の希望者に何かの基準で負けてしまったからなのかもしれない。 あるいは, 将来理論に進むと心に決めていたから最後の1年だけは実験を志したのか, それとも 工学部に入って将来企業に就職するとなれば 物理の応用を肌身で感じておくのがよいと考えたのか ・・・ とにかく全く記憶に無い。
 話をなされば, かなりの吃音なので嫌う学生は いたかもしれない。 だから, 講義は お世辞にも上手とは言えなかった。ただ, 1つだけ確からしいのは, この先生とだったらうまく行かなくて困ることは 無さそうだ ・・・ という感じくらいは あったかもしれない。 それは, まさに当たっていた。
 というわけで, 1年で飛び出したのであるが, 私に寅彦の末裔であると名乗る資格はあるのかな?(笑)
 それはともかく, 人の縁とは不思議なもので, 4年生の僅か1年というご縁でしたが, 先生が 1/4 世紀ほど後に東京大学を定年退職後, 明治大学に物理学科設立のため招聘されたときには, 理論の教員が足りないからというので急遽 招集が掛かり, 以後 10 年弱 同僚としてお付き合いすることになりました。
 ガラスを真空中でぶっ壊す
 ガラスを壊すと言っても, ただ壊すだけではありません。
 空気中ではなく, 真空中で壊す。 真空中を割れ目の進む速度が 空気中とどう違うか ・・・ そこが狙い目でした。 もちろん, アルゴンのような不活性ガス中でも同じことをします。
 このため, 実験装置は大掛かりになる。 真空容器の中で壊すので, ガラス容器では駄目で, 金属の重たい大きな容器の中で壊します。 1回ガラスを割るたびに, 容器の蓋を開けてリセットし, また真空を引き直します。 蓋も重たいので, やぐらを組んで吊り上げます。 1回の実験にかなりの時間が掛かることは, お分かりいただけると思います。
 思い出すといろいろなことが出て来る(笑)。 危険もあります。
 高電圧でコンデンサー・バンクを充電して, 放電します。 物凄い音が出るし, 感電の危険もゼロではない。 カー・セルに使うニトロベンゼンを蒸留するので, 化学の実験室みたいになる。 ただし, 私は高等学校では化学の方が (物理より) 好きだったので, これは苦にならなかった。 ガラス板は, 表面を洗浄するのに 何だったか 強酸を使いました。 物理の研究室のはずなのに, 実験衣・ズボンには 知らないうちに穴が開きました。
 実験装置

 これが 実験装置の概略図です (興味の無い方は飛ばして下さい)。
 右上が真空容器で, この中で ハンマーで叩いて ガラス板を割ります。 ガラス板には導電塗料を塗っておき, ハンマーが叩いたことを検知し, ここからディレイを取って, 発光システムを起動します。
 ただし, ここで面倒だったのは, ハンマーがガラスを叩く時刻は正確に分かるのですが, ガラスにひび割れが起こり始めるまでの時間は一定ではありません (ガラスの個性にも導電塗料の塗り方にも依るでしょう)。 卒業研究の間は, 最終的にここがネックになり, 結局のところ 良いデータが得られるのは 運試しになっていました (その後どうなったかは知りません)。 ひび割れが生じ始めたことを電気的に検知できれば, うまく行くでしょう。
 光学系の方に話を移すと, 偏光子 (Polarizer) と検光子 (Analizer) を直交させて光が通らない状態にしておき, カー・セル内のニトロベンゼンに 10,000 ボルトの高電圧パルスを掛け, (ニトロベンゼンのカー効果により偏光面を 90° 回転させて) その間だけ光を通します。 このパルスを 2μs 間隔で2回掛ける。 光は, 左側の放電管から来ます (人の目から見れば 一瞬だけ光るが, ガラスの割れ目から見れば長時間 光っている)。 写真は乾板で撮影しました。
 Nevill F. Mott
 いささか (かなり?) 場違いと思われるかもしれませんが, ここで Nevill F. Mott 卿が登場します。
 物理屋さんなら大抵の方がご存じの あの Mott です。
キャベンディッシュ研究所
歴代実験物理学教授
1James Clerk Maxwell (1871-1879)
2Lord Rayleigh (1879-1884)
3J. J. Thomson (1884-1919)
4Lord Rutherford (1919-1937)
5William Lawrence Bragg (1938-1953)
6Nevill Francis Mott (1954-1971)
7Brian Pippard (1971-1984)
8Sam Edwards (1984-1995)
9Richard Friend (1995-)
 キャベンディッシュ研究所の教授職は なぜか 初代の Maxwell 以来「実験物理学教授」と呼ばれているのですが, 実験とはあまり関係の無さそうな6代目の Mott は, Mott-Massey (原子衝突), Mott-Gurney (イオン結晶), Mott-Jones (固体電子論) などの本で有名な理論物理学者です。 1977 年, P. W. Anderson, J. H. Van Vleck と共にノーベル物理学賞を受賞しました。
 ところが 知る人ぞ知る, Mott は固体の機械的性質に強い関心を抱いていました。
 今 ウェブを検索すると, 1948 年の論文 "金属の破壊:理論的考察" では,「割れ目の速度の定量的理論を初めて提出した」ことになっています。
 実は ・・・ , 4年生のときに 先生から渡された論文の 1つが Mott の論文でした。 今 ウェブを探して見つかるのと同じだったかどうかは 全く分りません。 内容もほとんど記憶にありませんが, 物体に貯えられた ひずみエネルギーが解放されていく過程が破壊であり, それと割れ目の速度が関係する ・・・ というような内容だったと思います。 とにかく 「破壊物理学者」の間では, Mott のような人が論文を書き続けているということ自体が重要だったのでしょう。 Mott が "破壊の理論" で (破壊物理学の創始者として) ノーベル物理学賞を受賞していれば, 面白いことになったかもしれません (笑)
 先生が真空中での破壊を考えたのは, Mott のどれかの論文から着想を得たのかどうかは, 全く分かりません。 失礼ながら 弾性論を使って (普通の人なら逃げ出したくなるような) 複雑な数式が出て来る論文を丁寧に読んでおられたのかどうか分かりません (だから なのか知りませんが, ずっと後になって 小野寺は理論に行くだろうと思ってた … と言われました(笑)。 「喰いつき」が良かったらしい。自分では記憶にありません)。
 発想は表面エネルギーにあったのです (Mott の理論に表面エネルギーが入っていたのか いなかったのかは 記憶にありません)。 破壊によって新しい破面を作るには, エネルギーを必要とする。 そのエネルギーは環境に依存する。 だから, 真空とかアルゴン雰囲気とかに環境を変えれば, 割れ目の進む速度が変わることがあってもよいではないか ── Mott が何を言おうと。
 応用物理の系譜 ── つづき
 ところで, この「応用物理」に投稿された報告は, いったい 誰が書いたのでしょう?
 私は 書いた記憶がありません。後に東芝に入って活躍した相棒の中塚くんも同じらしい。
でも読めば分かります。
 「要するに, 電気火花や閃光放電管だけで済む問題に 敢えてカーセルという牛刀を用いたという非難があるかとも思われるが ・・・ 」
 こんな日本語が 4年生に書けるかとも思われない (笑)
 結局, 先生が全部原稿を書いて投稿し, 学生2人があとから 別刷をもらったというのが真相です。
 しかし, 30 代の働き盛りの先生が 実験の計画から細かい手配・発注まで全部 自分の手でして, 手柄は4年生2人に与えるというのは 驚きで, 今の世の中に そんなことをしている若い教師はいるでしょうか?
 あらためて, ウィキペディアで「平田森三」を見ると, …
 「研究指導に当たっては, 大局的な方針や目的を示し, 後は当事者の勉強と創意に任せた。 指導した研究は数多いが, 平田の名前が直接表面に出ている報告は比較的少ない。」
 とある。
 明治大学の物理学科では, この別刷が ときどき 学生を驚かせて 先生が喜ぶタネに使われた。
 私も, 自分の研究室の4年生にこれを見せて楽しんだことがある。
 (1) 中塚晴夫・小野寺嘉孝:『1個のカーセルを使つた2重露出瞬間影写真』応用物理, 33, No. 6 (1964) 421~423 (PDF).
 (2) 上記の HTML ファイル