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「生物の科学 遺伝」 2003年1月号(57巻1号)


特集 ゲノム時代の遺伝教育

特集にあたって

池内達郎・布山喜章

一般の人々の遺伝学リテラシーと遺伝教育の原点

 21世紀はバイオサイエンスの時代だといわれる.
 ゲノム,遺伝子組換え,遺伝子検査といった用語が,食生活や健康問題も含めた日常生活の中に浸透してくる世の中にあって,市民一般の遺伝に関する基本知識と理解力は決して十分ではない.
 「遺伝子を食べたことがありますか」という一般消費者向けのアンケート調査で,「ある」と答えた人は16 %にとどまった(「ない」が26 %,「わからない」が 58 %)という報告がある.
 巷の新聞記事をみると,「小泉政権に代わったが,自民党の遺伝子は変わらない」とか,「日本古来の文化は日本人特有のDNAにより育成・継承されてきた」などという記載が散見される.
 一般市民も,新聞記者や評論家もこぞって遺伝子やDNAの本来の意味を(たとえ比喩で用いられても)きちんと理解せずにいる状況がわかる.
 「遺伝」についての正しい知識がないと,遺伝子組換えや遺伝疾患といった言葉にも不安や誤解,偏見が生じたりする

 以前より,系統的な遺伝教育は,国民の大多数が経験する高等学校の「生物」教科で行われてきた.
 しかし現在の教科書に盛り込まれた遺伝分野の内容は,近年の生命科学の発展を反映したものとは到底言いがたい.
 用語表記が古い様式のままであったり,遺伝子・DNAが分子のレベルで解説されていなかったりする.
 実は,本特集を示す「ゲノム」[それぞれの生物種において,生命を維持できる最小限の遺伝情報単位,すなわち半数体の染色体構成の1セット(あるいはそのDNAの総体)]という用語でさえ,ほとんどの教科書に載っていないのである.
 そして,現行の学習指導要領では科目の選択制が進んだことにより「生物」を履修しない生徒が大幅に増えていること,さらに2003年度から実施される新学習指導要領では学習時間も学習内容も大きく軽減化されることになっている(学習指導要領のこれまでの変遷については本特集の池田博明 氏の項で概観されており,新しい指導要領での問題点は,筆者・池内の項でも紹介されているので参考にされたい).
 こうした深刻な状況を打開する道を探るために本特集は企画された.
 もっともそのきっかけは,日本遺伝学会第73回大会(大会長:お茶の水女子大学理学部・石和貞男教授)の特別企画として昨年の夏に開催された「遺伝教育について考える」と題する公開シンポジウムにあった.

 本特集は,その公開シンポジウムでの話題を基盤にし,若干視野を広げて再編成し直したものである

特 集 の 構 成

 最初に"高校「生物」における遺伝教育の問題点"と題し,三つの主題を選定した.

 一つはメンデルの「遺伝の法則」である.
 メンデルは遺伝現象を要素還元論的に把握した,現在にあっても基礎遺伝学から分子生物学までを含んだ現代生命科学の原点だといってよい.
 しかし,このことについて高校での教育を受けた大学生の理解度が表面的であると感ずることが多い.
 また教科書には,補足遺伝,抑制遺伝などのいくつかの遺伝様式(遺伝子)が登場する.
 これらは20世紀初頭にはメンデル遺伝の変形として関心を呼んだが,現在ではほとんど死語に近い(受験専門用語といってもよい).
 こうした「遺伝の法則」にまつわる幾つかの問題点について,本特集企画者の一人である布山喜章が考察する.

 二つ目は,教育目的組換えDNA実験についての話題である.中・高校生を対象に積極的に講習会などを開催している正木春彦 氏に依頼した.
 組換え食品,遺伝子診断といった組換えDNAにまつわる用語が日常化している中で,高校「生物」教科では一部の(約1割と予想)生徒のみが履修する「生物II」でしか遺伝子を分子のレベルで学ぶことができない.
 しかし文科省は,最近,組換えDNA実験を高校教育の中に導入することを認めた.
 その意義や,それを支える社会的,教育的基盤の整備が急務であることが語られる.

 三つ目として,現行および新教科書から「ヒトの遺伝」,とくに遺伝疾患に関する記載が減っていることについて,筆者の一人 池内達郎が紹介する.
 突然変異や遺伝病に対して誤解や偏見のない社会環境を育成するためには,国民一人一人が正しい「遺伝」の知識をもつことが肝要で,教育の中で遺伝病をタブーにしてはならないことを主張する.

 上記の3点の話題を受けて,現場の高校「生物」担当の先生からのコメントあるいは実践例などがそれぞれの稿のあとに展開されている.
 授業の中でそれぞれに主眼を置き実践されている前島 緑 氏,吉本和夫 氏,降幡高志 氏に執筆をお願いした.
 それぞれの話題が,提言する側と実践する側の両サイドから論じられるので,視点に深みが増したと思われる.

 高校での遺伝教育ばかりでなく,国内の医学教育の中でも遺伝学が軽視されていることは古くから指摘されてきた.
 したがって,臨床医のドクターが遺伝疾患についての基礎知識に精通していないので,当事者や家族に対して適切な対応がなされないことが多い,という悲しい現実がある.
 看護師や保健師などについても同様である.
 こうした医療職の養成機関における遺伝教育の現状と問題点について,武部 啓 氏に論じていただく.

 最後に,教科書を中心とした遺伝教育の変遷をたどりながら,日本の教科書と米国の教科書との比較を池田博明 氏にお願いした.
 米国の教科書は大判で分厚い.
 内容は豊富で最新の生命科学上の知識や社会との接点なども含み充実している.
 対して,日本の教科書は頁数が少なく,簡潔で短く削ぎ落とされた解説からは,ダイナミックな知識の広がりを感じ取ることは難しい.

 今後望まれることは,学会を中心とした専門家と教育者の側とが互いに連携して情報交換をし,現行の学習内容を全面的に見直して,新しい時代にふさわしい遺伝教育のあり方を考えることにあると思う.
 遺伝教育における根本的な意識改革を進める必要がある.
 本特集がそのような活動開始の契機となることを期待したい.

(いけうち たつろう,東京医科歯科大学 難治疾患研究所;
      ふやま よしあき,東京都立大学大学院 理学研究科)

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