裳華房のtwitterをフォローする



「生物の科学 遺伝」 2003年7月号(57巻4号)


特集 高山植物研究の現在 −アルプスからヒマラヤへ


特集にあたって


大場秀章

 交通や登山技術の発達とともに,私たちが高山植物に接する機会は増えている.高山植物の多くはからだの大きさに比して大きい色鮮やかな花をもち,人々に愛でられてきた.
 高山植物はこうした観賞の対象としてばかりではなく,研究の面でも注目されてきた.
 その魅力の一つは,高山は,大洋中の島々のように周囲から隔絶していることによる"隔離"と"進化"についての実験室であることだ.そればかりではない.私たちの居住域とは異なる環境に暮らす高山植物の特異さも忘れてはならない魅力なのである.
 高山では,砂漠や極地と同様に,植物の生育に欠かせない温度資源・水資源が欠乏する高ストレス下での暮しが強いられる.それに加えて,強い紫外線や低圧の影響も及ぶ.高山は,植物にとっての極限環境の一つでもある.
 多様性の広がり,植物の環境に対する適応の研究の場としても高山は格好の対象といってよい.

 日本でも高山植物の研究は盛んである.日本の研究者による高山植物の研究は日本の高山を対象に始められたが,1950年代後半からはヒマラヤ山脈を舞台に多くの研究が行われてきた.
 本特集に執筆をお願いした研究者は,ヒマラヤの植物の分野横断的研究の推進を目指して1985年に組織されたヒマラヤ植物研究会のメンバーである.
 その研究成果によるものとして,1992年に本誌46巻9月号で,『ヒマラヤの高山植物 ―その適応と生態』という特集を掲載した.それから10年余り経過したが,この間に高山と高山植物についての研究はさらなる進展をみせている.
 また,研究の広がりは分類学や生態学にとどまらず,植生史,気候学など多分野に及んでいる.従来はデータも少なく解らなかった地球規模での気候変動が,ヒマラヤなどの高山の植生の発達とどのようにかかわっているかが具体的に語れるようになってきた.

 ヨーロッパのアルプス山脈で始まった高山植物の研究は,ヒマラヤ・中央アフリカ・アンデスをはじめとする世界の高山に及んでいる.少ないとはいえ関連の論文は優に1000を超す.私たちの高山植物についての理解や知識はアルプスの高山での研究をもとに組み立てられてきた.
 このような歴史的経緯の上に書かれたのがバーゼル大学Christian Korner教授の『Alpine Plant Life』(Springer-Verlag,1999年刊)である.『高山植物の生活』とでもいうべきこの書は,生理生態学の視点から書かれた高山植物についてのすぐれた教科書である.
 私はみていないが,最近その改訂版が出版されたときく.初版でみる限りKornerの本でのヒマラヤの高山植物の扱いはたいへん限られている.ヒマラヤを中心においた高山植物像を提出してみたいという衝動に駆られるのだ.そういった,地域ごとの研究の統合化と総括は,高山植物に対する普遍的理解には欠かせない一過程と考えるからである.

 この特集では,各章を私たちのヒマラヤでの研究を中心において記述していただいた.
 米林 仲氏は高山の植生の歴史的変遷にふれた.
 変動は過去のことではなく,氷河の後退など今に継続しているが,年較差や日較差に代表される比較的短い周期的な変化,高山を特徴づける低圧・低温や強い紫外線なども,高山に生きる植物に大きな影響を及ぼしている.
 高山晴夫氏は,ヒマラヤでの気温や降水量の実測値をもとに,乾燥が植物に及ぼす影響を論じている.
 氷点を割る低温は植物の生える大地中の水を凍らせ,その凍結融解が特有の地形を生みだす.菊池多賀夫氏は,こうした地形や積雪,日射などと植生の関係を検討する.
 ここで3氏が論じている多くの問題は,植物の研究だけでは解けないものだといってよい.
 舘野正樹氏が問題としている「植木鉢的環境」という土壌資源のありようも地形や温度といった環境と深く結びついている問題である.

 私たちが通常接している平地の環境と異なる環境に適応したのが高山植物であるが,その適応のしかたは詳細にみれば高山植物の数だけあるといってもよいかもしれない.
 ここではいくつかの着目点を定めて,高山植物の特性を探ってみた.
 筆者と秋山 忍氏は,世界の高山植物相を概説し,高山に特異な生育型を扱う.
 能城修一氏は,木本植物について材の構造から高山への適応や樹木限界を論じる.
 大森雄治氏は,開花と送粉を通じて適応の問題を検討する.
 塚谷裕一氏は,高山への適応としてヒマラヤの高山植物で提唱されたセーター植物・温室植物の特性とその適応的意義を論じる.
 筆者は,塚谷裕一氏の記事に関連して中央アフリカ高山のジャイアントセネシオの適応戦略を簡単に紹介する.
 1万種近い高山植物ついての解析的な研究は容易ではない.高山植物の種多様性は古くて新しい問題である.
 藤川和美・池田 博の両氏は,性格の異なるトウヒレン属とキジムシロ属を例に多様性の実像を紹介する.

 私たちは日本の高山の姿から,高山を手つかずの自然が残っているところと思いがちであるが,世界的にはそうとはいえない.アルプスやヒマラヤなど大山脈の高山は古くから家畜の放牧に利用されおり,その影響が植生に及んでいる.
 高槻成紀氏は,放牧と高山植生との関係を具体例をあげて検討する.

 当初,この特集では,テーマごとに世界の高山に通じる普遍性とヒマラヤ地域の特殊性を分けて紹介することを考えたが,この点は達成できなかった.まだ,世界の高山植物全般を具体的に論じるだけのデータと知見を私たちがもちあわせていなかったことが大きい.
 とはいえ,この特集が読者諸氏の高山と高山植物についての理解の深化にいくばくかの役に立つことができれば幸いに思う.


(おおば ひであき,東京大学 総合研究博物館)

  → 特集の目次へ



         

自然科学書出版 裳華房 SHOKABO Co., Ltd.