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「生物の科学 遺伝」 2004年3月号(58巻2号)


特集 動物たちの移動の謎をさぐる


特集にあたって


黒川 信


 動物の個体あるいは個体群が生息場所を変える「移動」は,繁殖・採餌・逃避・環境応答などの動物行動の一要素であり,その生物学的意義・様式は多様である.

 「移動」の空間的スケールには,原生動物の顕微鏡下の移動から,昆虫の採餌などに代表される近距離の移動,そして長距離移動昆虫や渡り鳥,回遊動物などの地球規模を含む遠距離移動まで,大きく異なるものがある.

 また,動物の生活史における「移動」の周期も幅広く,一生に1回の移動から,何百,何千回と繰り返される移動まである.


 本特集では,「移動」を脊椎動物の回帰移動・回遊に限定せず,“動物が特定の生理状態に依存して特定の方向に居場所を変える”一般的現象として広義に捉える.

 そのうえで,動物界広範にみられるさまざまな「移動」を単細胞生物から無脊椎動物,脊椎動物にわたって包括的に捉えることで,「移動」のもつ生物学的背景の多様性と共通性を俯瞰する.


 単細胞生物が光や重力などの環境情報に反応して移動するしくみ,「走性」は,単一細胞内に感覚系・情報処理系・運動系を凝集させる進化の過程で獲得されてきた機能であると考えられる.

 時に無重力の宇宙空間に実験スペースを求めて研究する吉村先生は,クラミドモナスの走光性,重力走性の細胞機構を解説する(本号35〜39頁).

 水界の微生物,動物プランクトンの鉛直移動は古くて新しい話題である.

 われわれは,臨海実習などでの表層の動物プランクトン採集は夜間から夜明け前が適していることを経験的には知っている.しかし,彼らはなぜそのような日周活動をするのか? 最新の知見を含めて,渡辺先生が紹介する(本号40〜45頁).

 付着生物はその名から,固着して動かず,こと移動に関しては宿主に依存した動物と考えられがちである.脱皮を繰り返して成長する甲殻類を宿主とする付着生物の生活史は,宿主の脱皮周期で一方的に制限されてしまうのか?

 伊谷先生は,マゴコロガイやエビヤドリムシで発見した「付着生物の移動」を示しながらその疑問に答える(本号46〜51頁).

 誰しも一度は,巣と餌場を確実に結ぶアリの隊列やハチの飛跡を見て,その小さな体に秘められた能力に興味を抱いた経験があるのではないだろうか.

 落ち葉が積もった林床で,小さなベニツチカメムシは昼間,餌場から迷わず一直線に巣に戻るナビゲーションを行う.

 このとき,カメムシは環境情報を天候などの変化に応じて臨機応変に利用して自らの位置を定位していることを,弘中先生は明解な実験から明らかにしている(本号52〜58頁).

 関連して,トピックス欄ではフンコロガシによる月光下のナビゲーション戦略が紹介されている(本号17〜19頁).

 移動にかかわるもう一つの謎に,それに費やすエネルギーの問題がある.

 ましてや長距離移動ともなると,その燃料備蓄と消費の高い効率性が求められる.

 何千kmにも及ぶバッタやチョウの無給油飛行の謎に対する答えが,茅野先生の生化学的研究から示される(本号59〜64頁).

 トピックス欄で紹介される,渡り鳥のエネルギー消費に関する逆説的な最新成果も興味深い(本号19〜20頁).

 「動物の移動」も 年周期,大陸・大洋規模と,時空間的にスケールが大きいものになれば,そのしくみはもとより,軌跡自身が多くの謎を秘め,人々の興味を惹(ひ)き付けてきた.

 身近な食材であるウナギは,沿岸で捕獲した「シラスウナギ」を用いた養殖が盛んだが,それが大洋のどこで生まれているのか,ごく最近まで未知であった.

 塚本先生は,緻密な追跡結果に基づいて,ウナギ産卵場の謎解きをすると共に,大回遊するに至るウナギ1億年の進化に迫る(本号65〜72頁).

 また,海洋には二次元的な水平面の広大さと共に,鳥瞰できない垂直軸の深い水中空間が広がるため,海洋生物の移動・回遊の理解には三次元的解析が不可欠である.

 畑瀬先生は,人工衛星による追跡法に加えて 新しい「安定同位体分析」法を導入することで,ウミガメの移動と水中での生活を解析することを可能にし,アカウミガメの生活史に2タイプが区別されることを示す(本号73〜77頁).

 吉岡先生には,鯨類を形態的に多数個体識別し経時的に観察する手法から得られた成果として,従来の定説にはなかった定住性の個体群の発見について述べてもらう.

 本稿で詳細は割愛されているが,鯨類の深海への垂直移動についても小型潜水記録計などを用いて解明されつつある(本号78〜82頁).

 樋口先生は,まず鳥類の衛星追跡のしくみについて解説し,そのシステムを用いて得られた,渡り鳥に関する生態学・行動学・生理学に及ぶ多くの新知見を紹介する(本号83〜88頁).

 動物たちは,環境情報を敏感に捉えながら移動を行う.地球規模で移動する渡り鳥や海洋動物は,その軌跡を示すことで地球環境の変化をわれわれに知らせるパイロットになるのかもしれない.

 石居先生は,ヒキガエルの繁殖池をめざす移動についての研究を紹介する中で,“自然科学の研究の進め方”をわかりやすく解説する(本号89〜93頁).

 本稿はとくに,生物科学に限らず自然科学を志す若い方々にぜひお読みいただきたい.

 また,多くの読者にとって実験科学へのいっそうの興味を抱くきっかけとなることを期待する.


 「移動の謎」と言ったとき,その軌跡自身が謎に包まれている場合,移動を支えるしくみ,ないしはその生物学的意義が未知である場合など,さまざまである.

 それぞれの研究者たちがこれらの移動の不思議にとりつかれ,その謎を一つ一つ解き明かしていくプロセスを含めて紹介することで,科学の楽しさを多くの読者にお伝えすることができたならば,本特集の企画者として幸甚である.

 なおこの特集は,2003年度日本動物学会関東支部が主催した同テーマによる公開講演会を基にし,それに7題を加えることで,できるだけ多くの事例に基づいて広く「移動」を把握できるように構成した.本特集は講演会と共に,石 龍徳(順天堂大学)・佐藤 恵(日本大学)・日野昌也(神奈川大学)と黒川からなる委員会により企画された.

(くろかわ まこと,東京都立大学大学院 理学研究科/日本動物学会関東支部2003年度企画委員会)

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