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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第63回 『安倍三代』と整合する安倍晋三像を求めて

『検証 安倍政権 −保守とリアリズムの政治−』
  (アジア・パシフィック・イニシアティブ、文春新書)

 最初に。没後1年8か月を経て、歴史的人物として評価する時期が始まったと考えるので、以下「安倍さん」でも「安倍氏」でもなく、安倍晋三と表記する。

 前回取り上げた『安倍三代』(青木理 著、朝日新聞出版、2017年)では、安倍寛(あべ・かん、1894〜1946)、安倍晋太郎(あべ・しんたろう、1924〜1991)、安倍晋三(あべ・しんぞう、1954〜2022)という安倍家三代の政治家の肖像を徹底した取材で描き出していた。著者は安倍晋三が、祖父・父と比べて異質であると指摘していた。著者の青木氏が関係者から引き出した安倍晋三像は「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」というものであり、要約すると「信念がない。寛や晋太郎にはあった、人として依って立つ強固な芯がない」というさんざんなものであった。
 では、もしそうだとして、そのような人物像は二次にわたる安倍政権、特に2012年12月26日から2020年9月16日まで、7年9か月、2821日と過去最長を記録した第二次安倍政権が行ってきた政策と一致するものなのだろうか。
 一致しないならば、『安倍三代』の見解が間違っているということになる。
 一方で「これはこういうことで、このような政策になった」と、一致する解釈を見出せるならば、『安倍三代』が示す見解の確度は高まることになる。
 さらにその見解を、安倍寛ではないもう一人の祖父、岸信介(1896〜1987)と比較することで、岸信介から安倍晋三に何が伝わったのか、何が伝わらなかったのかが見えてくるのではなかろうか。

 というわけで手に取ったのが、今回紹介する『検証 安倍政権』だ。著者になっているアジア・パシフィック・イニシアティブは、元朝日新聞主筆の船橋洋一氏が2011年9月に設立した一般財団法人 日本再建イニシアティブをルーツとする独立系シンクタンクだ。
 2017年の改組で一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブとなり、2022年に公益財団法人 国際文化会館と合併したが、合併後もアジア・パシフィック・イニシアティブをブランド名として活動を継続している。大きな社会的な出来事に対して、専門の研究者を動員して多角的に検証を行い、報告書を出版するというのが主な活動で、有名なところでは、東日本大震災時の福島第一原子力発電所の事故では、民間事故調査報告書を出版している。

 本書は、9つの章からなり、安倍政権が取り組んだ9つの政策を取り上げ、それぞれ専門家が調査・執筆を行っている。9つのテーマは、経済政策(アベノミクス)、選挙対策、官邸主導(官僚のコントロール)、外交・安全保障、TPPなど通商政策、主に中韓との歴史問題、自由民主党内のガバナンス、女性政策、憲法改正──。2022年7月の殺害以降に噴出した旧統一教会問題は取り上げられていない。
 それぞれ安倍晋三本人を含む関係者に広範な聞き取り調査を行って執筆されている。政治の場合、直近には関係者が隠匿して真実が出てこないことも多々あるが、これだけの調査を2021年時点で行ったということは、それだけで評価に値するだろう。

 一読し、「なんと日本の首相は多岐に渡る仕事をしなければいけないものか」と驚いた。一応知識としては知っていたものの、このように具体的なケースでまとめられたものを読むと、その仕事の過酷さが肌感覚で実感できる。
 もちろん一人の人間が、国のすべてに対して十分な見識を持つことは不可能だ。したがって内閣総理大臣の仕事は、確固たる原則を持つこと、その原則の上に立って、実際に仕事を行う人材を見出し選任し、任せつつも監督すること、内閣総理大臣が出ていかなければ解決しない問題については躊躇なく前に出て、自らが動くこと、となる。

 やはりというか、経済政策を扱った第1章(執筆:上川龍之進・大阪大学大学院法学研究科教授)が抜群に面白い。「アベノミクス」とは、社会に政府が資金を供給することでデフレ状態をインフレ状態にひっくり返し、経済成長を実現するという政策だった。「三本の矢」と言われた政策の根幹は「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」だ。
 「大胆な金融政策」は「異次元の金融緩和」とも言われた。主に銀行が保有する国債を日本銀行が買い上げることで、通貨を市中に供給することを意味する。そうすれば銀行が通貨を抱えることになる。通貨は死蔵しても利益を生まないので、銀行は積極的な貸し付けを行うことになる。つまり民間は資金を調達しやすくなる。
 第二の矢の「機動的な財政政策」とは、大型の予算を組んで公共投資などで社会全般に通貨をばらまくことだ。インフラが整備される上に民間に資金が回る。民間に回った通貨によって設備投資が活発化して生産性が向上するし、給与として家計に回れば消費が活発化する。
 「民間投資を喚起する成長戦略」は、民間が積極的に投資しやすくなる環境を、政策的に作っていくということだ。「異次元の金融緩和」で銀行が積極的に貸し付けを行う環境を作ってあるので、制度的に投資しやすい環境を政府が作れば、民間は積極的に銀行からの借り入れで投資を行うことになる。モノとカネが動き、経済は活性化し、活性化することでデフレを脱却してインフレ基調となり、経済は成長することになる。
 これは社会への通貨の供給から始めて、順次経済を浮揚させていく典型的なリフレーション(デフレを脱却したもののインフレには至っていない状況のこと)政策である。安倍首相はリフレ政策を主張する経済学者たちの意見を容れて、アベノミクスを構築したわけだ。さらに、年率2%というインフレ目標が設定された。これまで日本ではリフレ政策が全面的に実施されたことも、インフレ目標が設定されたこともなかった。その意味で、確かにアベノミクスは画期的だった。
 民主党の野田内閣では、民主党・自民党・公明党の三党によって消費税率を2014年4月に5%から8%に、2015年10月に10%に引き上げるという合意ができ、「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律」という法に明記された。
 ところで、リフレ政策と消費税増税は正反対の政策である。リフレ政策は社会を流通する通貨を増やす政策だが、消費税増税は社会の通貨を逆に吸い上げてしまう。この二つを同時に実行するということは、火を付けながら水を掛けるようなものといえる。
 2014年4月1日の5%から8%の増税は三党合意のとおり実施され、その後安倍政権は消費税増税を何回も延期する。しかし、2019年10月1日に8%から10%に増税された。

 本書は「リフレ政策は、実のところ最後までは貫徹されずに放棄されたのである」(本書p.40)と総括し、具体的にどのような綱引きが官邸、日本銀行、財務省の間で起きていたのかを追跡していく。
 アベノミクスに対しては、財政規律を重視する財務省が危機感を抱いた。安倍政権が任命した黒田東彦日銀総裁も「異次元の金融緩和」を実行する一方で、「脱デフレと消費税増税は両立する」などと発言して官邸を牽制する。金融緩和という第一の矢はぎりぎりまで続けられるが、他方で第二の矢の「機動的な財政政策」、第三の矢である「民間投資を喚起する成長戦略」は不十分なままで放置された。
 上川教授は、消費税増税延期は、アベノミクスは成功しているという政治的主張と矛盾していたと指摘する。アベノミクスが成功しているなら、経済は浮上し、十分社会は消費税増税に耐えられるはず、という論理になるというのだ。
 これに、選挙という政局が関係してくる。2017年10月、安倍首相は衆議院を解散し、選挙になった。「増税延期の信を国民に問う」という趣旨だったが、実際には「増税延期といえば選挙に勝てる」という政局絡みの判断だったらしい。
 この選挙では、幼児教育・高等教育の無償化も争点になった。無償化には財源が必要だ。このことを消費税増税を目指す財務省が利用する。消費税増税を決めた三党合意では、消費税増税で増える税収の1/5を子育て支援などの新たな社会保障に当てて、残る4/5を財政赤字の返済に充てるとしていた。官僚側はこの比率を1対1として、増えた社会保障分を教育無償化に使うという案を作り、そのような変更が安倍政権の“手柄”となるようにした。「財務省の案で消費税増税をした」ではなく、「安倍政権が新たな政策のために積極的に増税を行った」という構図になるようにして、安倍首相に消費税増税を了承させようとしたのである。
 この案を了承した結果、安倍政権は一層の増税延期ができなくなる。延期すれば自らの目玉政策が実行できなくなるからだ。
 かくして、2019年10月1日に消費税は8%から10%に増税され、財務省の宿願は達成された。この増税の悪影響を緩和するために安倍政権が選んだ対策は、法人税減税であった。
 上川教授は、金融緩和というリフレ政策を限界まで実施してもうまくいかなかったことから、リフレ政策に対する期待が萎み、消費税増税が成功したという見方を提示している。しかし、リフレ政策は本来三本の矢であり、「異次元の金融緩和」だけでは効果は限定的となる。安倍政権は第一の矢のみのリフレ政策を成功としなくてはいけなかったがために、消費税増税を実施せざるを得なくなった。

 ここで根本に立ち戻ってみよう。リフレ政策と消費税増税は正反対の政策なのである。その正反対のことを実施してしまう安倍首相の心の有り様というのはいったいどんなものだったのか。
 はっきり断言できるのは、安倍晋三という人に確固たる原理原則はなかったということだ。あったならばリフレ政策を採用した時点で、消費税増税は少なくとも自分が首相である間は絶対に実行してはならない禁止事項となる。そして、リフレ政策の第一の矢だけではなく、第二の矢、第三の矢を実行しなくてはいけない。

 ここからは想像になる。おそらく彼にとっては、リフレ政策とは親しいリフレ派経済学者から教えて貰ったものだったのだ。しかもその理解は「あの人が言うなら良い政策に違いない」という、間に“友達としての人物評価”を挟むもので、「これこれこのようなメカニズムでリフレ政策は今自分が実施しなくてはならない」という経済学の理解に基づいたものではなかった。消費税増税を延期したのも、親しいリフレ派経済学者の顔を立てる、という感覚だったのではないかと邪推できる。
 そして、衆院選絡みで最終的に消費税増税を決意した経緯で、彼は、官僚の敷いた「自分の政策の実現のためには財源として消費税増税が必要」というレールに乗る。「自分が能動的にやっている」という形にこだわるところを官僚に見透かされて、乗せられてしまったわけだ。
 これは、「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」とする『安倍三代』での人物評価と矛盾するものではない。むしろきれいに合致する。さらにいうならば、安倍晋三をテーマとしたドキュメンタリー映画『妖怪の孫』(内山雄人監督、2023年)では、彼が「やっている感じが出ればいいんだ」と語っていたというエピソードが披露されている。これはアベノミクスの第一の矢がぎりぎりまで継続しつつも、第二の矢、第三の矢が不十分で終わったことと符合する。「異次元の金融緩和」という第一の矢だけで、彼は自分が何事かをやっているという気分になってしまったのではなかろうか。
 中心に「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」という人物像を置くと、アベノミクスと消費税増税という政策の推移がきれいにその周囲に整合して配置できるのである。

 本書の全9章を通読すると、その随所で、「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」という人物像を中心に置くと、7年9か月の第二次安倍政権の政策がひとつの観点から矛盾なく整理できるということが見えてくる。
 例えば、安倍首相本人が、強く原理原則を持っていたと推定できる靖国神社参拝。政権初期の2013年12月、彼は現役の首相として靖国神社に参拝するが、その後の7年以上の政権を通じて、2回目はなかった。次の参拝は首相退任直後に行っている。アメリカから強い反発が出たためだった。
 これを本書の第4章を執筆した熊谷奈緒子・青山学院大学教授は「貫徹したリアリズム」と評価する。だが、アメリカからのある程度以上の反発は事前に予想可能である以上、取るべき道は、何があろうと参拝しつづけるか、最初からしないかの二択ではなかろうか。この行動はリアリズムというよりも、ちょっとやってみたら思った以上の反発が来て、あとはやめておく、というオポチュニズム、日和見主義ではなかろうか。

 そのような安倍晋三という人と、彼にとって尊敬の対象であった母方の祖父である岸信介を並べると、なにが見えてくるか。
 私が思うに、二人の最大の違いは、建前としての国家体制に対する態度だ。岸にとって国家体制は自分が利用するものだった。だから彼は、建前としての国家の有り様を権力を使って破壊するというようなことをしなかった。破壊してしまったら利用できなくなってしまうからだ。
 60年安保で、彼は右翼学生からヤクザ、果てはテキ屋に至るまでの非公然に存在する市井の暴力を動員した。それらは市井の暴力であるが故に、なにをしても「政府は関係ありません」と言うことができる。実際には政府自民党が動員しているのだが、建前としての国家体制には傷が付かない。
 そんな岸だが、激化する国会前デモに手を焼き、ついに陸上自衛隊の治安出動を赤城宗徳防衛庁長官に要請する。ここで赤城が岸の要請に応じていたら、自衛隊が国民と対峙し、国民を殺すという事態になっていた可能性がある。政府組織が国民を殺害するわけだから、これは建前としての国家体制の破壊だ。が、赤城が岸の要請を断った結果、岸は国家体制の破壊者にはならずに済んだ。おそらくこの時、岸は90年の生涯の中で、一番追い詰められ、テンパっていたのではなかろうか。
 対して第二次安倍政権では、いわゆる森友学園問題で、公文書改竄が発覚した。政治の要求ではなく、政治の意向を先回りしてくみ取った官僚の“忖度”という形で事態は収拾された。が、公文書こそは国家体制の骨幹だ。建前としての国家体制を守るためには、偽造があったとなれば政治は厳しく対策しなくてはならない。しかし安倍政権はそうしなかった。
 なぜか。ほぼ間違いなく、偽造があったほうが政権にとって、あるいは安倍晋三本人にとって都合が良かったからだ。つまり政権党、ないしは政治家個々人の都合を、建前としての国家体制の維持よりも優先したということである。
 岸信介と安倍晋三という祖父と孫を分かつのは、この建前としての国家体制に対する態度の違いであろう。
 孫は、祖父を尊敬したが、祖父の妖怪成分を受け継がなかったと形容してもいいだろう。受け継がなかったが故に、彼は国の形を溶かしてしまったのである。


【今回ご紹介した書籍】 

●『検証 安倍政権 −保守とリアリズムの政治−
アジア・パシフィック・イニシアティブ 著/新書判/408頁/定価1265円 (税込)/2022年1月20日刊/
文藝春秋/ISBN 978-4-16-661346-5
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613465

※電子書籍版もあります。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1666134600000000000A

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2024
Shokabo-News No. 393(2024-2)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンラインにて「チガサキから世間を眺めて」を連載の他、「Modern Times」「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。2──50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』(日経BP社)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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