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  第1回 数学書の読まれ方  

谷口 隆    

 専門的な数学書の出版を手がける出版社は何社かあるが,なかでも裳華房は,私たち数学者にとってはもっともお世話になっている版元のひとつである.右下にあるリンクをたどっていくと,多くの定評ある本の名が出てくる.個人的には,私も『数論序説』(小野孝)で整数論に入門させてもらった.このような専門書は数学者の活動の支えになっている.もし裳華房が突如消失でもしたら(?),私たち数学者としてはさぞ困ったことになるだろう.

イラスト  ところでそのような専門的数学書,実は,一般的な感覚からするとやや変わった,風変わりな読まれ方をしている.今回はこのことをちょっとお話してみたい.
 何といっても目立つのは,本を読むスピードが極端に遅いことだろう.「1年かけて1冊の半分手前ぐらいまで読めた」なんていうと普通は何かの冗談だろうけれど,実は数学書ではそういうことがあちらでもこちらでも起きている.ひどいときには,「3日かけて10行も進まない」とか「1週間頑張ったけど1ページも進めなかった」などという何とも悲しい話にもなる.前の方を読み返して考え直すという“行ったり来たり”も相当多い.この機会に知り合いの数学者に聞いてみたら案の定,「学生の頃,3年かけて読んだ本がありましたよ」と経験を話してくれた.いったい何にそんなに時間を使っているのだろう??

◇   ◇   ◇

 数学用語や数式を使うと,いろいろな考えや概念を正確に短く集約することができる.ピタゴラスの定理を例にとってみよう.この定理の中心にあるのは

$a^2+b^2=c^2$

という短い式だ.これぐらい短ければ憶えておくのに苦労しないし,便利に使える.でもはたして,短いから簡単だといえるだろうか? 思い返すと,これは中学校も後半で教わる相応に高度な内容だ.数を数え始めた幼な子に分かるような内容でないことは, $a^2$ とは何か説明しようと考えただけで明らかだろう. $a^2+b^2=c^2$ という式は,ギッシリと内容の詰まった高純度・高密度の結晶のようなものではないだろうか.高校では余弦定理

$a^2+b^2-2ab\cos C=c^2$

を学ぶ.ここで $C=90^\circ$ とすると $\cos C=0$ となってピタゴラスの定理と同じ式になり,余弦定理はピタゴラスの定理を拡張・発展させたものだと分かる.1行で表現できるから,このような関係も明瞭に捉えられる.
 整理簡約してポイントを明らかにし,その先に何が見えるかを考える.それは今も昔も変わらない.そのとき,内容がギッシリと凝縮できる感じには,数学に特有のものがあるようだ.
 もう少し専門的な例を挙げると,正17角形は定規とコンパスで作図可能だということが,18世紀末にガウスによって発見された.時代を画する最高峰の成果だったけれど,専門用語の使用をここだけお許しいただくと,現在ではとにかくその要点は2〜3行ほどで説明できてしまう.

「$\mathbb{Q}$ に1の17乗根を添加した拡大のガロア群は $\mathbb{F}_{17}^\times$ で,これは位数16の巡回群だから順に位数 16,8,4,2,1 の部分群の列があり,ガロア対応で対応する拡大が次数 1,2,4,8,16 となって2次拡大の塔をなすから.」

こんな分量なら,その含意は何か,その先には何があるのか,といろいろなことに目が向けられるようになる.正17角形が作図できても実用には供さないし,近似的には分度器やコンピューターを使うほうがずっと簡単に作図できる.しかし,ここで問題になる数学的な仕組みを端的に捉えようとして生み出された「群」という概念はその後,現代物理学でも決定的な役割を果たし,今日の社会に大きな影響をもたらすことになった.

◇   ◇   ◇

 要点をくっきりと描き出したい.ならクドクド書かず,重要な点だけを簡素に明確に表現しよう,あとはその繋がりをこれもなるべくアッサリ表しておこう,となってくる.書き手のそんな意識が全体に行き届くと,本は高密度になって読むのが遅くなる.整理簡約の道のりもそれなりに追体験して納得しないと,分かった感じにはなれない.また,そういう本では不必要なことはほとんど書いていないということにもなるので,キチンと隅まで理解したい場合は分からない箇所を残すわけにいかない──ということで,分からない箇所を潰していく作業が必要で,それを気長に根気よくやる. 本棚の写真 そんなこんなでいつの間にやらずいぶん時間がたってしまう.でもどうやら,短くまとまっているから結局のところ頭に収まりやすいらしい.ピタゴラスの $a^2+b^2=c^2$ のように.
 そうはいっても,あまり硬派な本ばかりに囲まれるのではなんだか息苦しい.細かいことまで詳しく書いてある本にももちろんその良さがある.ただ,細かいことが何から何まで書いてあると,そのときは読みやすくても,結局何が理解できたのだろうと振り返ったとき,どこがポイントだったのかが分からなくなることがあり,そのあんばいが難しい.きっとこの辺りが,数学書の風変わりの元なのだろう.

(2015/9/2掲載,9/18レイアウト更新) 
(イラスト:マエカワアキオ) 


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「数学者的思考回路」 Copyright(c) 谷口 隆,2015

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執筆者紹介

大野 泰生
おおの やすお 
1969年生まれ.東北大学大学院理学研究科数学専攻教授. 専門は整数論,多重ゼータ値など.趣味は美味しいものを探すこと. 一般向け著書に『白熱! 無差別級数学バトル』(共編,日本評論社)がある.

谷口 隆
たにぐち たかし 
1977年生まれ.神戸大学大学院理学研究科数学専攻准教授. 専門は整数論,概均質ベクトル空間.趣味は中国茶. ブログ「びっくり数学島」でも数学について綴っている.


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