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Web連載コラム「数学者的思考回路」タイトルボード


  第10回 1173事件  

大野 泰生    

 とあるビジネスホテルではチェックインの際に,金属製の鍵もプラスチック製のカードキーも渡されず,ただのレシートを受け取る.そこに書かれた $8$ 桁の番号が部屋を開錠するための暗証番号なのだ.このシステムの優れた点は,鍵の返却の必要がなく,有料のサービスや物品を利用しなければチェックアウト手続きの必要がないことだ.忙しい朝,出がけにチェックアウトカウンターで待たされずに済む. テンキータイプの認証ボード また,暗証番号は日々更新できるので,ホテルにとっては鍵を持ち出されたり紛失されたりする心配がないのだ.このシステムは海外でも見かけられ,フランスのある宿ではフロントもロビーもなくホテルの建物の脇にあるタッチパネルに予約情報を入れるとレシートのような紙が出てきて,そこに書かれた番号で入室する.決済はクレジットカードだからホテルの従業員には一切会わずにチェックアウトまでできてしまう.
 先日,国内出張で同様のビジネスホテルを利用したところ,斜め向かいの部屋のご夫妻が外出から戻ってきて,扉の前で互いに「番号を暗記しているかどうか」を試していた.手に持ったレシートをあえて見ずに,ホテルの廊下で楽しげに部屋の暗証番号について話している光景はとても微笑ましかった.だが,もちろんこれはたいへん危険な行為である.この後,泥棒被害のなかったことを心から祈る.もしものときには,同じ廊下でエレベータを待ちながらこの会話を聞いていた私が真っ先に疑われるだろう.
 ともあれこういった際には,番号を語呂合わせで憶えていることが多いのではないかと思う.このご夫妻も $8$ 桁の暗証番号を思い出す際に,自分がどのような語呂合わせで憶えたかを披露しあっていた.

◇   ◇   ◇

 数学を勉強する過程でもいくつかの数値を憶えたのではないだろうか.まず思い出すのが円周率 $\pi$ である.「さんてんいちよんいちごうきゅう」.これは語呂合わせではなく,単なる読み上げの丸憶えだ.しかし, $\pi$ の暗記桁数の世界記録を何度も更新してきた有名な日本人の場合, $\pi$ の各桁の数の語呂合わせとして北海道松前藩の武士の壮大な物語を創って記憶しているという.平方根でポピュラーなのは,
$$\sqrt{2}=1.41421356 \cdots$$ の,「一夜一夜に人見ごろ(ひとよひとよにひとみごろ)」, $$\sqrt{3}=1.7320508 \cdots$$ が,「人並におごれや(ひとなみにおごれや)」, $$\sqrt{5}=2.2360679 \cdots$$ では,「富士山麓オウム鳴く(ふじさんろくオウムなく)」といったところだろうか. イラスト 円周率と並んで重要な値は,ネイピア数とも呼ばれている自然対数の底 $$e=2.718281828459045 \cdots$$ だろう.「フナ一鉢二鉢一鉢二鉢至極美味しい(ふなひとはちふたはちひとはちふたはちしごくおぃしい)」という語呂合わせが有名である.単なる読み上げよりも語呂合わせにしたほうが,たしかに圧倒的にたくさんの桁を憶えられるようだ.たとえば,円周率 $$\pi=3.141592653 \cdots$$ も,「見いよ,異国に婿さん(みいよいこくにむこさん)」と語呂合わせしただけで,既に $10$ 桁憶えたことになる.多少意味不明な文章になったとしても,無味乾燥な数字の羅列を記憶するよりもずっと楽な気がする.そのせいだろう,円周率にはたくさんの語呂合わせが知られている.

◇   ◇   ◇

 $2$ 年ほど前に驚かされたのは,サーファーの方々の連続盗難被害の報道である.サーファーはサーフボードを持っているから車で海岸へ向かう人が圧倒的に多い.着替えにも便利だし,何といっても荷物をたくさん運んで行って楽しめる.しかし海に入っている間に車の窓を割られるなどして,車上荒らしの被害に遭うことがある.サーファーの方々もそこは警戒していて,車中に残していく財布には,一般に少額の現金しか入れていないという.と,ここまでは想定しうることなのだが,その車上荒らしの際に銀行のキャッシュカードを盗まれ,口座から大金を引き出されてしまった,というのだ.キャッシュカードには $4$ 桁の暗証番号が設定されているはずだ.それなのにいとも簡単に引き出されるのはなぜか.
 なんともサーファーらしいことだが,暗証番号を「 $1173$ (いい波)」にしている人が圧倒的に多かったのだそうだ.そんなわけで,サーファーから盗んだキャッシュカードの暗証番号として犯人が最初に試したのがこの「 $1173$ 」で,結果高い確率で引き出されてしまったという.サーファーが車で海に行くこと,波に揉まれるので財布は車に置いて海に入ること,そして「いい波」が好きなこと,などいくつもの因子が皮肉なまでに揃って得られる高確率なのだ.

◇   ◇   ◇

 そうなのだ.近年は暗証コードでセキュリティーが守られている場面が多く,しかもその手軽さからますます利用が広がっていることもあって,ひとたびこれを破られた際には被害がとても大きくなってしまうのだ.
 先日も,多数の芸能人のフェイスブックに不正アクセスしたとして男が逮捕された.誕生日やデビュー日などの情報から当たりをつけて,パスワードを見つけ出したのだという.被害に遭った芸能人は,プライベートの写真やメールなどを盗まれたという.芸能人の場合,特に多くの個人情報が公開されていて,しかもターゲットになりやすいので,個人的な記念日や語呂合わせなどで暗証コードを設定するのは危険極まりないことなのだろう.
 また思い出されるのは,高名な物理学者リチャード・ファインマンの自伝にあるエピソードである.アメリカのロスアラモス国立研究所で仕事をしていたイタズラ好きのファインマンは,機密書類を入れた鍵付きキャビネットのセキュリティが不十分であることを,鍵を開けることでたびたび証明してみせた.金庫破りである. 金庫 あるとき留守中の同僚の部屋で,国家機密を収納したキャビネットのダイヤル錠を開けようとする.キャビネットの置かれている同僚の部屋から,鍵の参考となる情報を探すうちに,同僚の秘書の机から $\pi=3.14159$ と書き込まれた書類を発見する.秘書がわざわざ $\pi$ の近似値をメモするはずがない.暗証番号は $314159$ に違いない,と考えたファインマンは,いろいろと円周率をアレンジしては鍵を開けようとするが,うまくいかない.諦めかけた彼は,『円周率 $\pi$ の次に大切な定数』である,自然対数の底 $e=2.71828 \cdots$ に思い至り, $271828$ を試してみた.するとアレンジするまでもなくあっさりと開錠できてしまった $・・・・・・$ という.
 国家機密の入ったキャビネットがいとも簡単な定数で開き,しかも部屋にあった $9$ つのキャビネットすべてが同じ暗証番号だったそうだ.この同僚はマンハッタン計画を含む国家プロジェクトの中核を担うほどの先端科学者である.この同僚に限らず,ファインマンは上司や同僚のもついろいろな鍵を開けた.国家機密レベルの先端科学に携わる俊秀であっても,安全な暗証番号を生成する能力はかならずしも褒められたものではないことがよくわかる.

◇   ◇   ◇

 こうした定数や誕生日などのほかに,日本語の場合には,語呂合わせからも想像されやすい番号というものが存在する.憶えやすいかわりに,想像されやすくもなるというわけだ.(ちなみに,語呂合わせで数列を記憶するという方法は,どの国の言語でもできるわけではないらしい.例えば英語で同様の語呂合わせを作るのはかなり困難なようである.)
 油断はないだろうか.
 そこで警戒の意味を込めて,みなさんに推理作家になった気分になって,語呂合わせから想像されやすいと思われる暗証番号を考えてみてもらいたい.
 ふなっしーのマスコットをカバンにつけていたら,「 $2741$ 」などは容易に想像されるだろう.福澤さんは「 $2930$ 」かな,石黒さんなら「 $1496$ 」かな.あの人はミニクーパーに乗っているから「 $3298$ 」なんて――よもや使ってはいないだろうか.
 そういうわけで,老後のためにコツコツ貯金して,良い老後( $4165$ )と洒落こんでいたとしても,ちっとも内緒( $7144$ )になんてなっていないのかもしれない.


(2016/6/1掲載) 
(イラスト:マエカワアキオ) 


次回(第11回)は7月6日(第1水曜日)に掲載いたします.どうぞお楽しみに!

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「数学者的思考回路」 Copyright(c) 大野泰生,2016

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執筆者紹介

大野 泰生
おおの やすお 
1969年生まれ.東北大学大学院理学研究科数学専攻教授. 専門は整数論,多重ゼータ値など.趣味は美味しいものを探すこと. 一般向け著書に『白熱! 無差別級数学バトル』(共編,日本評論社)がある.

谷口 隆
たにぐち たかし 
1977年生まれ.神戸大学大学院理学研究科数学専攻准教授. 専門は整数論,概均質ベクトル空間.趣味は中国茶. ブログ「びっくり数学島」でも数学について綴っている.




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